雑感〜沼小について

沼端小学校開校時の昭和51年、実は校歌も体育館もまだなかった。校庭は欠陥工事で雨水がすぐにたまる。確か業者の手抜き工事がばれて夏休みに校庭を整備し直していた。第2グラウンドにはアスレチックがあって休み時間などよく遊んだものだが、夏休みの登校日に第2グラウンドの草取りをやらされた時には暑さと草の蒸れたにおいで死にそうになったものだ。ちなみに後日、私の妹が第2グラウンドの運動器具から落ちて骨折したことがある(腕を折っただけで大したことはなかった)。その後第2グラウンドは農園へと変わったそうだが、そのことと妹の骨折事件と因果関係があるかどうかは知らない。



校歌についてだが、中学に入ってすぐの音楽の時間に自分の出身校の校歌を歌うという課題が課せられたことがある。クラスの沼小出身者が集まって沼小校歌を歌ったわけだが、他の小学校出身者が途中で不思議そうな顔をするのだ。なぜかと言うと、曲の途中でリズムが変わる、というのである。そう言えばこの校歌は4/4なのだが、途中に2/4が1小節だけ入るのだ。知らない人が聞くと確かに違和感があるかもしれない。よくよく考えると、この曲は最初は8分休符で始まるのだが、3小節目の途中で1拍半の弱起になる。そしてその後2/4の小節が入ってリズムを立て直す。その後中間の部分では何と強起になっているのだ。最後の部分はまた8分休符で始まるパターンを繰り返して幕を閉じる。確かにリズムが一定していない。校歌に合わせて行進すると足がもつれる可能性があるよね。



沼小の昇降口の脇に排水溝があった。夏になるとこの排水溝のふたをはずして中を観察したものだった。それというのも昇降口の近くに外灯があって、夜になると光に集まってきたゲンゴロウなんかが排水溝の中で泳いでいたからだった。水棲昆虫が結構いたような記憶がある。トンボの幼虫のヤゴなんかもいた。それらを捕まえるのが好きだった。そういえば校庭に小さなヤマカガシ(蛇だよ)がいて捕まえて遊んだこともある。当時ヤマカガシには毒はないと言われていたので安心して捕まえていた。今じゃとても出来ない。



給食の時、我々は三角パックの牛乳を飲まされていた。今では余りお目にかかることのない三角パックだ。飲み終わるときちんと畳んで捨てていた。男子など、飲み終わったパックを床において足で踏み潰し、派手な音を立てて女子によくにらまれていた。飲み残しの牛乳が飛び散ったりしていたし。ごみ箱が一杯になると日直が捨てに行くのだが、その先はなんと焼却炉だった。いまでこそダイオキシン問題が知られてるが、当時はそんなことを全く気にしていなかったものと思われる。



遠足や修学旅行の際、しおりが配られていた。各クラスの係りが作っていたのだと思うが、係りの皆さんご苦労様でした。私はそういうのを作るのに参加したことはないのだが、あの頃は多分ガリ版を使って印刷していたのだと思う。今ならパソコンやコピーが簡単に使えるのでしおり作りは楽ちんだろうが、当時は全て手作業だった。私の手元にしおりの類は全く残っていないので、あくまでも記憶によると、しおりの最後の方は大抵歌謡曲の詞が掲載されており、バスの中等でみんなで歌を歌うのにとても役立っていたと思う。あれは「明星」とかに載っていた歌詞を書き写していたんだろうね。今考えると、著作権法違反すれすれのような気がする。著作物を無断で使用していたわけだし。でも、教育目的だからいいのかな?バスの中でみんなで色んな歌を歌った。誰かがマイクを持ってリードを取るのだが、みんなそれに合わせて口ずさんだっけ。ちょうど男子は変声期を迎える頃だった様に思う。



6年生の当時流行っていたのは、山口百恵、西城秀樹、ピンクレディーといったところだろうか。キャンディーズはちょっと前に解散していた。「ちびまる子ちゃん」を見ていると作者のさくらももこと我々が同世代であることが分かる(実際には1〜2年我々は年下だが)。あの時代はアイドルがアイドルらしい最後の時代であった。なぜなら、直後に若者の音楽志向は確実に「ニューミュージック」と呼ばれるジャンルに移行していくからだ。ユーミン、オフコース等の音楽に我々はあの後すぐ夢中になる。そういえばアリスの人気は当時既に頂点に達していたように思う。私も中学に入ってすぐギターを始める。アリスの曲を弾くためだ。これが音楽にのめり込む最初のきっかけだったように思う。



今でこそ、マルチメディア教育は小学校で盛んに行なわれているが、我々の頃はそんなものはなかった。マルチメディアという言葉もなかったし。沼小の晩年時にはパソコン、インターネットを使った教育活動が盛んだったようだが、我々が小学生の時代にまだパソコンはなかった。日本初のパソコン(もっとも当時は”マイコン”と呼ばれていたが)PC−8001が登場するのは2年程後のことだった。教育における唯一のメディアといえば、教室に置かれたテレビだけだった。このテレビを使用して何をするかというと、NHKの教育テレビ、今風に言えばETV、つまり3チャンネルでやっていた教育番組を見るのであった。見るといってもねえ。毎週決まった時間に見る訳でもなく、時々社会、道徳の番組などを見ていたような気がする。あのテレビで特徴的だったことが一つ。それは扉が付いていたこと。なんで扉がついていたのかね。生徒が勝手にテレビを見ないように?それにしても別に鍵が掛けられている訳でもなかった。今まで色んなテレビを見てきた(番組を、という意味ではない。テレビ本体のこと)が、扉の付いたテレビは小学校でしか見たことがない。そういえば、野球の日本シリーズが行われていた時(当時は大抵デーゲームだった)休み時間にテレビを点けて日本シリーズの試合を見たような気がする。あれは果たして6年の時だったのか。



当時の学校給食の一環として、病気等で休んだ人にパンを届けるという習慣があった。風邪を引いて寝込んでいる私の所に母親が来て「さっき○○さんがパンを届けてくれたよ」と言ったことが何回かあった。子供心にパンなどいらないと思ったものだった。別にパンが嫌いとかそういうことではなく、風邪をひいていて食欲がなかったのであろう。これが揚げパンだったら話は別だったと思う。それはそうと、私は何回かパンを持ってきてもらったことがあるし、自分が休んだ人の家までパンを届けたこともある。大抵、先生は休んだ人の近所の人にパンを託していたようだった。そもそも何故休んだ人にパンを届けたのだろうか。おかずを持って行くことはできないので、せめてもの代わりにパンを届けさせたのだろうか。休んだ日の分も給食費を払っているわけで、何がしかの還元をする必要があったのだろうか。確かにパンなら数時間経っても傷むことはないだろうし。そういえば通学路の途中に「ロミ」という名の犬がいて、学校帰りに給食の残りのパンを与えたりしたことがある。ロミにあげたパンは自分の残り物だったのか、それともだれか風邪を引いて休んだ友人のものだったのかは憶えていない。それにしても最近は休んだ友人の分のパンを届けるという習慣はないようである。O−157の心配もあることだし。



さて、皆さんは学校帰りの校門あたりで怪しげな物売りに出会ったことはないだろうか。彼らはある時はカブトムシを売っており、またある時はひよこを売っていた。ひよこにはピンクやブルーなどの色が付けられていた。俗に言う「カラーひよこ」である。「ひよこはメスだから、大きくなったら卵を産むよ」などと言う甘い言葉に乗せられてひよこを買った人も多いのではないだろうか。しかしである。このひよこは全てオスであった。そもそもひよこに付けられていたピンクやブルーの色は数日で落ちるようになっている。ひよこはあっという間に大きくなる。成長したひよこはただうるさいだけの雄鶏となるのである。雄鶏はもちろん卵を産むことはない。けたたましい時の声を告げて近所の安眠を妨げるだけである。
彼ら怪しい物売りが出現したのは何も沼端小学校の校門前だけではなかった。彼らは各地の学校近辺に現れては、怪しい商品を子供に売りつけていたようである。最近、他市の小学校出身者と話をしていて、その学校の校門前にも同じような物売りが現れていたことを知った。さて、果たして今も怪しい物売りは存在するのだろうか。少子化によって彼らも苦しい商売を行なわざるを得ないのではなかろうか。



月に一度ほど、一斉下校の日があった。土曜日の授業が終わった後、まず通学班ごとに校庭に整列して先生の話を聞くのだ。大抵は交通安全の話などであった。話が終わると通学班ごとに帰宅する。先生のアナウンスによって順番に帰っていったような記憶がある。我々6年生は大抵の場合、最高学年として通学班の班長を務めていた。私もまた班長の務めを仰せつかり、拙いながらも通学班を毎朝率いていたものだった。班長の言うことを聞かない悪ガキが多くてなー。いや、班長の威厳が少なかったと言うべきか?当時は団地の一階段で通学班が一つ出来るほどの子供の多さであった。今では団地1棟で一つの通学班が出来るか出来ないかというほどだと言う。団地の少子化、そして高齢化が進んだことをいやというほど見せつける現状であろう。



朝、登校すると我々にはやることがあった。それは「朝自習」と言うものである。算数か国語の問題を与えられてそれに取り組むのである。廊下に朝自習のプリントを入れた箱が設置してあった。その日の日直がそれを取りに行ってみんなに配っていた。どんな問題が出たかよく憶えていないが、算数なら計算問題、国語なら漢字の読み書きだったと思う。自習をする時間があるということは、我々はわりと早めに学校に登校していたのであろう。果たして授業が始まる何分前に学校に来ていたのだろうか。通学班と共に登校していたので、毎日ほぼ同じ時間に登校していたのは確かである。班の集合場所と時間はいつも同じだったから。



我が沼小の鼓笛隊は運動会の時などに活躍していた。我々一般生徒も鼓笛隊に合わせて縦笛(リコーダー)を吹いたりしていた。何の曲を吹いたかあまり憶えていないのだが、当時の鼓笛隊にとってスタンダードナンバーとも言える曲が存在した。それは「トランペットこんにちは」と言う曲である。あれ、「こんにちはトランペット」だったかな?どっちが正解だ?!
まあ、どっちでもいい気がするが、この曲は昭和50年代の小学校の鼓笛隊でしばしば演奏された曲らしい。というのも、会社の後輩も小学校でブラスバンドというか鼓笛隊に所属していた時にやはりこの曲を演奏した、ということを聞いたからだ。ところで、この曲「こんにちはトランペット」だか「トランペットこんにちは」だか、と言う曲を皆さん憶えているだろうか。♪ソーソッソソソソラーソ ラーラッララドシラソー ソーソッソソソソラーソ ラーラッラソソラシドー(以下略)♪という様な曲である。主役はもちろんトランペットである。ペットのメロディーに合わせてベルリラなどがカウンターメロディーを奏でる。おお、懐かしい、ベルリラ。行進しながら演奏する一種の鉄琴だね。吹奏楽の中でも特にマーチングでしか使われない楽器は幾つかあって、ベルリラもその一つである。私は高校時代になってから吹奏楽に手を染め、そのような特殊楽器に結構詳しいのだが、それはまた別の機会にお話したいと思う。